名誉会員紹介


名誉会長  北野 元 氏

 

京都府出身。元ホンダワークスドライバー及び日産自動車(追浜)ワークスドライバー。

 1959年に開催された「第1回全日本モトクロス競技大会」でデビュー オープンレースにてデビューウインを飾る。同年の第2回全日本クラブマンレースにて125ccクラスと250ccクラスに出場し、両クラスで優勝する。同レースと併催だった第3回浅間山レースで市販マシンにてホンダのワークス勢を抑えて優勝する(1日でレース3勝)。この活躍で注目の的となり若き天才ライダーと呼ばれる。 翌1960年ホンダ社員ライダーとなりマン島TTレースに出場。1961年のマン島TTの練習時に転倒し重傷を負う。その後 1965年から当時日産自動車レース総監督の難波靖治氏とホンダ技研工業の元社長、河島喜好氏との話し合いにて、田中健二郎氏に引っ張られる形で同チームの高橋国光氏と追浜ワークスへ移籍その後日産プロトタイプ(R380.R381.R382)で活躍し名実共に一流ドライバーの仲間入りを果たした。その後ツーリングカーとGTカーにてレース活動を行いフェアレディ432Rで、同車のデビュー戦となった1970年鈴鹿300kmレースでリタイヤに終わったが当時「レースの神様」と呼ばれた田中健次郎氏を絶賛させた。1978年現役引退。1980年代に後輩の星野一義氏の誘いで一時復帰するも1989年現役引退。現在では、板橋区にて二輪タイヤショップ「ウルフ・モト」を経営、顧客のバイクに合ったタイヤ選択と安全に速く走る方法を伝授している。

名誉副会長 柳田 春人 氏

 

埼玉県出身。元レーシングドライバー及び現セントラル20代表取締役(1974年設立)

1969年フェアレディ2000でレースデビュー開始。元女優の夏川かほる氏に見いだされ1972年には240Zを駆って2勝を記録。その後、自らで調布市にチューニングショップ「セントラル20」を設立。プライベーターとしてフェアレディZで参戦を続け1978年の富士GCスーパーツーリングでは、当時最強のサバンナRX3に立ち向かい見事にシリーズチャンピオンを獲得する。「Zの柳田」と呼ばれた。79年からは富士スーパーシルエットレースに参戦、バイオレット・ターボ、ブルーバード・ターボなどで大活躍し80年、83年とシリーズチャンピオンに輝く。フェアレディZで活躍していた事から「Z使いの柳田」と呼ばれる。また、どしゃ降りの中でも勝利をもぎ取る姿から「雨の柳田」とも呼ばれる。この時の寓話として、車体後部に「スクリューが付いていたのでは?」と囁かれた。実子はレーシングドライバーの柳田真孝。記念すべきGT-Rの初優勝者の篠原孝道氏と73年のオイルショックが無ければ2名でのワークス契約予定が御破算。1974年にセントラル20を設立。プライベーターでレース参戦。後にスーパーシルエット時代にワークス契約を行う。

技術顧問 久保 靖夫 氏

 

東京都板橋区出身。 1950年台中盤、久保兄弟(寿夫、和夫)と近所の幼馴みで浅間火山レース参加する為のチーム結成(城北ライダーズ)後に国内最強と言われるチームとなる。ここでは、ライダーでは無くチーフメカニック、チーム監督として参加。各地でのレースの活躍が認められスズキ自動車(現スズキ)とチーム契約を行う。その後、城北ライダーズのメンバーと共に「東名自動車」(現 東名パワード)を設立。設立時には、日産自動車宣伝部第4課の管轄で有った、大森チームで活躍した鈴木誠一氏と兄弟も含まれる。1975年世田谷区にて(有)スピードショップ・クボを開業 1981年足立区に移転。現在に至る。

2021年10月7日 87歳で永眠。

 

 


元米国日産  宇佐美 昌孝 氏 

 

1926年生まれ。長い間元米国日産自動車副社長として元米国日産自動車社長、ミスターKこと片山豊氏より「車は売るだけではない。10年、20年面倒を見る必要があるので心して対応してほしい」と言われ、販売・サービス関係で社長を補佐し、米国日産を支え、増え続けるダットサンをサポート。カリフォルニア、ニューヨーク、ヒューストンを中心に販売。

テキサスの砂漠で一台一台販売。クラッチライダーのための対応にも追われる。高速運転でのタペット破損対応、寒冷地対応など広大で幅広い環境のアメリカでご尽力。

1949年 日産自動車入社(技術部門採用)配属~外車部をはじめ国内営業部門サービスを経験  

1961年  米国日産設立に伴い米国日産自動車に出向。米国東部を担当部長。職掌:サービス、部品部

1968年 全米統一に伴い副社長としてカリフォルニアの米国日産本社へ異動。職掌:サービス、エンジニアリング。

1976年 米国勤務16年を終え、日産自動車本社へ復帰。その後関連部門を経て米国企業の顧問を歴任し、退職。 現在は長野県軽井沢町で過ごす。

元日産自動車  植村 齊 氏

 

1935年東京生まれ。1954年開成高校を経て、東京大学工学部応用物理学科に入学し、1960年卒業。同年、日産自動車に入社。第一設計部シャーシ設計課に配属。

ダットサン310を担当し、音・振動の解析を担当。1961年は、ダットサン410・510を担当し、サスペンション設計に携わる。

さらに1967年S30・S130車両を担当。その後1968年第三車両設計課に配属、1974年同部署課長に昇進。1977年にベルギーにある欧州技術事務所ブリュッセル駐在事務所に赴任。1982年、海外車両設計部次長、1986年部長、1988年ブリュッセル技術事務所所長からニッサン ヨーロピアン テクノロジーセンター社長に就任。1991年日産自動車を退社され、日産車体商品開発室主管、取締役、1995年常務取締役に就任、1998年からは監査役としてご活躍。2000年日産車体を退職し、(株)トノックス顧問に就任。その後、自動車業界を離れ、清和書道会会長として現在に至る。

 

元日産自動車  松尾 良彦 氏 

 

1934年7月11日兵庫県出身。元日産自動車造形課 第4スタジオ デサインチーフ。日本大学芸術学部卒 1959年日産自動車入社 私大卒での初めてデザイナーとなる。幼年期から車が好きで、高校生の時に大阪繊維工業指導所にてダイハツの小型三輪車の初期デザインを担当。 日産自動車に入社後、

当時の日産自動車内では「410ブルーバード」の基本デザインを行っていたピニンファリーナの車体が販売不振の為に同車のデザインに対して、販売前から私的発言を行った為に上司命令にて411の改善業務「マイナーチェンジ」を行う。この時に、新たにフロアシフトのSS「スポーツセダン」を提案。その後SSS「スーパースポーツセダン」を発表。第一造形課が第1スタジオから第4スタジオに分類され第4スタジオ長を松尾良彦氏、吉田章夫氏、千葉陶氏3名の小所帯からスタートした。この段階では、次期スポーツカーの展望は、先の見えない業務だった。ここで初代フェアレディZを担当する事になる。最終的には西川暉一氏、田村久米雄氏、桑原二三雄氏などの協力を得てタルガトップやその後2by2などを提案。これが起爆剤となり単一生産台数がトータル54万台となる大ヒット車種となる。1973年日産自動車を退社。

2020年7月11日 86歳で永眠。  


元日産車体  大澤 英二 氏

 

日産車体にてS30Zに関わる。昭和45年7月 補機、電装、艤装、シャシー課長に就任。植村さんのS30次期型、S130企画書に基ずき、全力を新開発に傾注(植村さんは途中で欧州に転勤)S30では原価にも重点が置かれていた為、流用部品多用に勤めたが、量産の進んだ次期型では設計も工場の設備も、全てを革新にを合言葉に、日本初、世界初が多く採用される事となった。私の課も数十人の体制でしたが、殆んどの部品の細部設計は部品メーカーでやっており、Z、と言えば皆さん喜んで協力してくれ、最盛期には数百人のひとを動かしていたことでした。思えば、この頃が私が最も輝いていた時代かも知れません。

昭和34年群馬大学機械工学科卒業。昭和34年日産車体(株)入社。ダットサン310、410、510ワゴン車、小型トラック、キャブライト、キャブオールの車体設計を担当。昭和43年、補機、電装、艤装(全車)係長として担当。昭和44年10月S30北米輸出にあたり、3ヶ月の現地テストチームに参加。昭和45年 補機、電装、艤装、シャシー課長に就任、昭和57年次長に昇格、昭和59年部長に昇格。昭和62年研究試作部長、平成01年車体設計部長に就任。平成8年定年退職。現在に至る。

 

元日産自動車 吉田 章夫 氏

 

1937年(昭和12年)5月 東京生まれ

1962年(昭和37年)3月 東京芸術大学美術学部工芸科図案計画

1962年(昭和37年)4月 日産自動車株式会社第2企画室造形課現デザイン本部)配属

1990年(昭和64年)1月 東京コミュニケーションアート専門学校に出向

1991年(平成2年) 1月 東京コミュニケーションアート専門学校副校長に転職

2012年(平成24年)3月 同校退職

 

 日産では約25車種のデザインにかかわっております。モーターボートを含む関連車種を入れると50種になります。学校の教育に携わってからは、日本の全自動車メーカーとベンツの本社を訪問。

 クラブS30の皆様、車を愛用頂き、ありがとうございます。私が1988年アメリカに出張したとき、ビバリーヒルズを散歩し、あちこちの家にS30が置かれているのを見て嬉しくなったのを思い出します。

発表した1969年のデトロイトのモーターショーにも行きましたが、その時はまだ、アメリカでこんなにも愛されるとは思ってもみませんでした。

元米国日産  片山 豊 氏 

 

1909年9月15日 静岡県出身。 

元米国日産2代目社長(愛称:ミスターK 米国で一番サインをした日本人)

 1935年 慶応義塾大学卒業後、日産自動車入社。当時の日産コンツェルンの創立者 鮎川義介との縁故入社。学生時代の英語力を生かし、宣伝課長時代の1958年8月20日 開催のオーストラリア一周モービルガスラリーの監督としてダットサン210で日本車として初めてのAクラス優勝を勝ち取る。この時の優勝ドライバーは難波靖治氏(初代ニスモ社長)

組合との関係に嫌気がさし、当時の原科専務の後押しにて1959年9月渡米。1960年9月2日米国日産設立。初代社長は、石原俊氏。東地区担当副社長 川添惣一氏 西地区副社長 片山豊氏。その後西地区の売上向上により1965年2代目米国日産社長に就任。上記ラリ―の経験で得たメンテナンスの重要性を本社に伝達し、販売数を記録的に引き延ばした。510の成功と240Zの成功により、ダットサンブランドを輸入車トップの販売台数を記録する。左記の成功により、「ファザーオブZカー」ミスターKの称号を得る。1975年社長退任、1977年会長退任後に帰国 1981年7月ダットサンブランド消滅。1998年アメリカ自動車殿堂入り。2014年 新興国向けブランドとしてダットサンブランド復活。

2015年2月19日 105歳で永眠。 



 ジョニー・ウエダ・ゲーブル 氏

Johnnie (Ueda) Gable

 

テキサス州ドーソン生まれ。1963年米国日産入社。

部品部秘書から車両発注業務を経て片山豊氏の秘書となる。1977年片山豊氏の帰国後も米国日産に勤務。

現在は片山豊氏の愛車の240Zのオーナーとして毎年開催の全米ZCar大会にて、現在も片山豊さんの功績を語り続けている。

2020年12月8日永眠。

ジョニー・ジョン・ジョン・ウエダ 氏 Johnnie "John John" Ueda

 

カリフォルニア州サンタモニカ生まれ。高校卒業後に大学に通学の傍らロックウエル社に勤務し、スペースシャトルのプログラムに関わる。

母親のジョニーと共に片山豊氏の愛車の240Zのオーナーとして、毎年開催の全米ZCar大会にて、現在も片山豊さんの功績を

語り続けている。

 

元日産ワークスドライバー
都平 健二 氏

 

茨城県出身。

城北ライダース所属、及び元日産ワークスドライバー。

日産自動車(大森ワークス)とドライバー契約し、ブルーバードSSで四輪デビューしたのが1965年。飛躍的な成長をみせ、4年後の1969年には、6LのビックマシンR382で日本グランプリを出走。高橋国光と組み、日産のエースナンバーである No.23を走らせた。

1970年代はスカイライン2000GT-R・フェアレディ240Zで参戦。スカイライン50勝目を記録した富士300kmスピードレースでは豪雨の中で驚異的な速さで快走するも、リタイアに終わる伝説を残した。

都平はスカイライン2000GT-Rで4勝を挙げている。フェアレディZでは'70年、'71年の日本グランプリGT-IIクラス優勝。

'72年鈴鹿1000キロでは高橋国光と組み優勝。また、72年のキャラミ12時間耐久に参戦。

1980年代のマイナーツーリングではサニーで通算21勝をはたし、JSSではスカイライン・シルビアで通算16勝を挙げ、3度のシリーズチャンピオンに輝いた。

JSPCに長谷見昌弘とスカイラインターボC で参戦。1990年代はスパ24時間でクラス3位を果たす。N1耐久 (現 S耐)では4勝を挙げ、R33のデビューレースをR32で優勝。

十勝24時間で優勝。1994年には念願のシリーズチャンピオンを獲得。

そんな都平の名言のひとつが「コーナーは真っ直ぐ走る ブレーキは踏まない」

2024年4月25日 83歳で永眠。



元⽇産⾃動⾞

宮崎 武雄 氏(旧姓︓⾼原)

 

1943年(昭和18年)⼤阪⽣まれ

関⻄⼤学・工学部化学工学科(部活︓⾃動⾞工学研究会)

⽇産⾃動⾞第⼀⾞両実験部第2⾞両実験課時代、横須賀追浜テストコースなどでS30の開発に携わる。⾃動⾞が増えだした昭和40年代、⾞には取扱い適合性を再確認する商品性試験が⼤事と会社にアピールし、安全で快適に運転するための「人間工学課」が出来る。
その後、実⾞風洞で⾏う「空気⼒学試験」を担当。各地に⾼速道路が開通する時代になり、⾼速での安定性を確保するためには、⾞のデザイン担当者は⾞体周りの風の流れを理解してデザインする事が重要とアピールし、厚木テクニカルセンターに「200(MAX270)Km実⾞風洞」と「スケールモデル6分⼒風洞」が完成した。(新幹線のスタイルも、この風洞実験の試験で決められたもの)

定年後、東海⼤学医学部中島研究室で、災害地や戦地で静⽌衛星を使って病院並みの治療ができる「未来の救急⾞」開発と「人間性と脳波の関係」を手伝う。